ゴールデンウィーク前後、連休は続く。

先月、ここ4年半ほど続いていた仕事が終わって、たっぷり時間ができた。
仕事や用事に追われて滞っていたブログのアップも、やっと以前のようなペースで書けるのかなと思っていたが、そういうものではないようだ。
        ☆
ゴールデンウィーク前だったこともあり、飛び石とかも関係ないのだから久しぶりに故郷の母を、東京に招くことにした。
入院している義母のお見舞いや、かみさんの実家への挨拶など付き合いに絡むところ以外は、取り立てて何かイベントがある訳でもなかった。母のリクエストでスカイツリーに登り、それから銀座界隈をめぐる2階建てのオーブン・バスにも乗った。
街中で、真っ赤なこのバスを何度も見たことがあったので、いつか乗ってやろうと自分の興味のままに普段の生活目線とは違う東京観光を楽しんだ。

↑今年のゴールデンウィークは、お天気に恵まれた。上野公園からスカイツリー方面の風景、この時はまだ登る前々日。

↑さて、当日はやや薄曇り。スカイツリーにすごく登りたかった訳でもないが、中に入る寸前、期待でドキドキ。

↑やはり、ガスっていて視界がクリアでない。それでも、地上451.2mの天望回廊からの眺めは、素晴らしかった。隅田川、その向こうに自分の住むマンションが、持参した双眼鏡でも肉眼でも見えた。ちまちまとした街並の中で、ちまちまとした毎日の生活を暮らしていると思うと、少々複雑な気持ちになった。この初体験後、雨降りで荒天の翌日に朝から晴れていたら『スカイツリー日和』とばかりに、なにを置いても駆けつけて登りたくなる。

飲み食いに関しては、見えを張った店に行く考えもなく、まったく普段どおりにひとり飲みの店に連れて行った。
休日直前の高速バスのチケットが買えず、連休前の平日からこちらに来ていたので、北千住『大はし』、新宿・思い出横丁『カブト』にも行け、昼のちょい飲みには、銀座七丁目『ライオン』といった具合だった。
昭和のはじめに生まれた母は、すでに80歳オーバーながら今も元気いっぱいで、何でも飲み食べるので、こちらもあまり気を使う必要はない。
乗ったら着くまで寝てればいいと夜行の高速バスにひとりで乗って来て、早朝の新宿バスターミナル『新宿バスタ』に到着。眠くはないのかと聞いても、まったく大丈夫というので、それではと映画を観に行った。
映画を楽しんだあと、荷物は自宅に置きに行くも、そのまま北千住の銭湯へ。風呂上がりのいい気分のまま『大はし』で、開店してのれんが掛かるのを待った。
母がいると、どうしても関西弁(もっとローカルな和歌山弁)が口から出て来て、いつもと調子が狂う。それでも『大はし』のオヤジさんには、僕の魚好きの大元ですと母を紹介できた。
「この煮込み、ええダシでとる」と、定番の肉豆腐を母は旨そうに食べている。見かけの醤油の色に惑わされないで、しっかりとこの味をわかるとは、さすがは我が母である。
『カブト』に行った時も、母よりひとつ先輩のオヤジさんに
「本当に、かたエリでいいの?」と何度も聞かれながら
「全部自分の歯だから大丈夫、魚は食べなれているし、うなぎは大好物だから」
頭を開いたエリ焼きの串を頬張り、僕と同じように芋焼酎を飲んでいた。
あっぱれ! かあーちゃん
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そんな母と、楽しい一週間が過ぎた。
高級なところに一度も連れて行く事はなかったが、息子の事は一番わかっているだろうし、何より本人が楽しんでいたようだ。
来た時と同じように新宿バスタから、夜行の高速バスに乗って帰って行った。
すでにゴールデンウィークも後半に入っていたが、まだ明日も休みが続くからだろう、新宿南口の再開発エリアでは人も多かった。
駅ビルの一画に大きなガラス張りで、レストランやバーの中が見える集合飲食店ではたくさんの人々が、楽しそうに飲み食いしている。
今夜は、ひとりで見送りに来ていたので、母が帰ってしまうと、さすがに寂しい気分になって来た。
この一週間のほとんどが、かみさんも一緒のグループ行動でいつになく賑やかだっただけに、そんな楽しいひと時も終わってしまったのが身に沁みる。
こんな時は、やっぱりひとり飲みだな。
新しくて、きらびやかな南口でなく、ちょっと歩くが馴染んだ西口の思い出横丁に向かった。

↑新宿・思い出横丁『ささもと』(正月ぐらいは休むと思うが)たぶん無休。小腹が減って、飲みたい時には、日曜・祝日でも本当に重宝する。

↑金宮焼酎に、梅エキス一滴たらして飲めば、俄然、元気が湧いて来る。

↑かつて、キツかった週末の仕事帰りに同じようにこのカウンターの位置で飲みながら、カレンダーを見上げてため息ついた事もあった。

横丁の通りに入ると、祝日の夜、この時間帯は外国人観光客のパラダイスで、特に焼きトン『ささもと』は、相変わらずの人気店。カウンター奥に座ったら、奥のテーブルも並びのカウンターも外国人が圧倒的に占めていた。
まあ、これもいつもの事かと煮込みの汁をすすった。
判別のつかない外国語が飛び交うのを聞きながら、ビールに金宮焼酎と飲み進め、焼きトンを頬張る。目の前に貼られた5月のカレンダーを見上げながら、寂しさがこころの表面から少し沈み始め、何となくいつもの調子が出てくるのだった。(5月3日飲)

仕事の終わった、その後は

とうとう、最後のアップロードの為に制作会社に出社する前夜は、熟睡する事は出来なかった。
仕事が終わることの感情よりも、まさに最後の校了データの扱いに強いストレスを感じていたのだろう。こちらが責任持たされてしまうヤバイ失敗がぽろぽろと今年になってから表に出ていただけに、無何に終わらせる事にひたすら力を注ぎ込んで来た。
明日から出社して来る事がない会社でも、関係があったスタッフや社長、部署の責任者にとにかく終了の挨拶だけはしっかりして、この仕事の前制作会社にも終わった報告をした方がよいだろうと早めに退社して連絡を取った。
かつての仕事にも、引継いで行った自分に対しても気にしてくれているようだったが、これから伺って話しをしたりすることができる状態ではないほどに忙しい様子で、先方に行く事は日を改めることにした。

↑苦しい時も、悲しい時も、長年に渡って助けられて来た北千住『大はし』。こころからの感謝と、これからもよろしく。
まだ、いくぶん明るい夕暮れ、背負って来た荷物を肩から下ろしたような、ホッとした気分でこれは、一杯飲みに行くに限る。
地下鉄・日比谷線に乗って最寄りの下車駅の三ノ輪の到着前に、その先の北千住まで乗り越して『大はし』でひとり飲みだなとこころを決め、退屈な地下鉄のドアの外を見つめていた。そうしたら、上野の手前の新御徒町で見知った人物がホームにいるのが見えた。
飲み友達のかつての同僚で、何度か仕事もして一緒に飲んだこともある、数年、会っていなかった人物だ。わざわざ、電車を降りてまで、声をかけるのかと躊躇する事もなく、とっさに電車を降りて声をかけた。
向こうもこちらも、共に懐かしいなぁーと声を出し、声をかけてくれた事をとても喜んでくれた。どうやら、こちらにしても終えた仕事のこともあり寂しい気分になっていたのかもしれない。
そのすぐあと、向こうの様子がちょっと気にかかると彼の片手にはストロングなんとかの酎ハイ缶がにぎられていた。そんなに酒の強い人ではなかったように覚えているが、少しいい気分になっていたのか、もしくは、夕暮れにどうにもやるせなくなって、たまらず地下鉄のホームで酒を口にしていたのか。
申し訳ないが、何か探る感じになりながらも共通の知り合いの話をしつつ同じ方向の後続の電車に乗るのだった。
これから飲む気満々のこちらと、程度は推し量れないもののすでに酔いつつある旧知の人物と偶然出会っている訳なのだから、そのまま飲みに行くのが流れだろうとハラを括り始めていたが、そうはならなかった。
向こうの闇が深すぎたのか、こちらにしても景気のいい話が口から出る事はない自制も働いたのか、帰りの通勤ラッシュでごった返した北千住のホームでくたびれたおじさん二人は別れた。
「北千住、楽しんで」
彼は別れ際に、元気をふり絞るように言うのだった。
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週の真ん中でも『大はし』は、満席。しかし、仕事帰りにちょい飲みの人も多いのだろう、すぐにカウンターに座れた。
ヘトヘトに疲れたこころと身体、かさかさになった全身にすうーっと、金宮の酎ハイが染み込んで、肉豆腐の一口がすぐに力となって吸収されていく。
「ほいさぁ、刺身は、何からいきますか」
オヤジさんが、満面の笑みで聞いてくれた。(4月13日飲)

* 仕事の事もあって、なかなかアップの出来ない状態でした。先の事も、わからない現状ですが、出来るだけ書き続けたいなと思っています。

年頭、初カブトにて

新宿・思い出横丁『カブト』で飲む時には、必ず入る前に店の写真を撮るようにしている。毎回、似たような写真になるが、お客さんの入り具合や座っているお客さんの後ろ姿が映り込むのだから、一期一会、同じ風景とは違うのだ。(と、本人は、思っている)
駅の方から来て、正面から店を撮ろうとすると、中の席からじっとこちらを見ている人がいる。必ず、ブログにアップする訳ではないが、顔出しはよくないので一応、顔をそらし斜めから店を撮った。
のれんに首を突っ込んでみると、どうやら満席かと思うも、先ほど席から外をじっと見つめていたおじさん、いや、おじいさんの隣で焼き台側の角の席が空いていた。「スミマセン、入ります」と、もぐり込ませてもらい、今年、初めての『カブト』を楽しむ。

↑思い出横丁『カブト』半分外じゃないかといいたくなるほど、開放的な店構えだ。狭い中にぎゅうぎゅうに押し込まれているようだが、わずかな隙間にもぐり込んで座ってみると、店内が何とも居心地の良い空間である事がすぐにわかる。
       ☆
話は、さかのぼり昨年の秋の事だ。
上野公園の中にあるスターバックスで、外の気持ちのよい大きいテーブルでコーヒーを楽しんでいる時、向かいに座った外国人観光客の白人の紳士が、バックから本を取り出し、熱心に読み始めた。
『TOKYO』と、タイトルが目に入ったのでガイド本だなと思った。しかし、驚いた事にその表紙が、思い出横丁の『カブト』だった。「えっ、なんでまた」と、不信に思うも“カブト・ファン”にとっては、少々誇らしい気分になった。
まさか『カブト』が、東京を代表するガイド本の表紙になるとは、まさに「びっくり、ポン!」だった。

↑外国人観光客に対しては『カブト』の親父さんは、たいして食べないのに、長居をすると、少々渋い顔をする。このガイド本、片手に表紙を指してやって来る外国人に対して、困ったと言っていた。仮に、自分が外国人旅行者の立場だったら、もちろん本を片手に来てしまうと思う。英語のかなり分厚いガイドブック、上野駅の本屋さんで見つけたし、アマゾンでも簡単にヒットした。
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カブトの親父さんは、確か今年84歳、申年の年男だ。
その親父さんが、現役でうなぎを焼きながら、常連のおじいさんの事を「この人は90歳なんだよ」と気づかっている。ヒレ串2本を目の前に金宮焼酎を飲んでいるが、一本は食べて串のみでもう一本には手を付けず金宮焼酎だけをちびちびやっていた。
2杯目の焼酎を所望して、千円札を2枚差し出した。カブトの親父さんは「大丈夫ですか。もっと、食べなきゃー」と、心配そうに焼酎を注ぎ、清算を済ませた。身体も、声も小さく、あまり何を言っているのか聞き取れないが、とても尋常でないオーラがでているように感じ、スター・ウォーズジェダイマスター・ヨーダを思い出させた。
向こう隣の席に居合わせた若者二人連れも、ヨーダじいさんの雰囲気にいたく感動したようで、帰り際に「これからも、頑張って飲んでください」とハグまでしてゆくのだった。
気がつくとこちらも焼酎2杯目を飲んでしまい、今日は、これで切り上げるかと財布を取り出したとき、隣のヨーダじいさんがポンと食べ残していたヒレ焼きの串を僕の皿に乗せた。食べろと言っていると察する事はできたが、もう酒もないしこれだけ食べるのはつらいので、丁重に辞退した。
僕もカブトでは、長居する方だが、独自の時間感覚があるのではと思うくらいどこか超越した感じのヨーダじいさんは、勘定を済ませながらもそのまま座り続けていた。

↑本日最後のレバ串に、ぎりぎり間に合った。すでに売り切れの札が貼ってあったが、最後の人数計算をしていて、僕にまである事がわかり、カブトのおやじさんはよかったねと言ってくれた。年頭の初カブトで、なかなか運がよかった。

↑7本の一通りに、マル塩2本の追加が、いつものパターン。
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駅と反対方向へ路地を下って、靖国通りの大ガードのところに出た。
今日は、新宿で飲んだついでに、古い仕事仲間の新年会の店を下見しようと大久保よりの西新宿に足を伸ばした。もう一杯飲みたい訳でなく、焼酎好きがいるのでその品揃えがどうだったか確認したかったのだ。
店は、混雑していて、ふらりと入ったひとりの客に対応してくれるタイミングがなかったので、席にも座らずメニューだけざっと確認した。これで用事は済んだので、飲まないで帰ることにして、また、新宿駅の方にぶらぶらと歩き始めた。ちょうど思い出横丁と反対側にあたる横断歩道の信号のところで、見覚えのある後ろ姿が視界に入って来た。
そう、先ほどまで隣で飲んでいたヨーダじいさんだ。
タクシーを止めようとしているだろうか?
なんだか夢中で、その後ろ姿を写真に撮った。
90歳、思い出横丁『カブト』にて、ヒレ串1本食べ、金宮焼酎2杯、ひとり飲みマスター・ヨーダの偉大な後ろ姿を、新宿の雑踏の中で見つめるのだった。(1月9日飲)

↑自分の目には、もう単なるおじいちゃんとは写っていなかった。果たして、自分に90歳まで、ひとり飲みを続けることができるのだろうか。あとで調べてわかったのだが、今年90歳だとしたら、大正15年、昭和元年生まれだった。

年末ジャンボと生ビール


随分、長くブログを書くのをさぼってしまいました。
義母が自らの転倒事故で頭を打ち、命を危ぶまれ、意識も戻らないかもしれないと搬送された医療センターの医師に大手術のあと言われた、あの夏の終わり。
あれから3カ月経って、医療センターから青梅のリハビリ病院に移り、あやうげながらも会話も交わせるように快復はしました。それでも、なかなか自分の口から食事をするまでにはならなくて、液体状のものを少量流し込めるぐらいで、はたして自分でおき上がるところまでいけるのかどうか。
なんだか、あの夏がそのままずっと続いているようにも感じていました。
ふと気がつくと、木々の葉は、赤や黄色に色づきはじめ、いつのまにか秋から冬に移り変わりました。
とうとう、今年も押し詰まって来ました。

↑宝くじをつまみに、年末の日曜日、寒空の下で生ビールを飲む。しみじみというよりは、大当たりの妄想にかられているのでした。
何度となくブログも書きたくなったりはしましたが、毎週一回は、病院に行く事が多くなにかと時間もなく、アップするまではできませんでした。
ずるずると、休みグセというのは恐ろしいものです。
このブログに、訪れていただいても更新されてないばかりで、本当に申し訳ありませんでした。
     ☆
一週間ほど前になりましたが、有楽町で年末ジャンボ宝くじを買いました。
自分のではなく、ふるさとに住んでいる母親が好きなので正月の帰省の際に、お土産として毎年プレゼントしていました。とは言っても、僕自身は、こんな確率のものが当るとは到底思えないので、興味もなく、実際はかみさんがいつも買っていました。
今年は、忙しいというので、とうとう僕が買いに行く事になった訳で、あの長蛇の列の銀座のチャンスセンターなどには、間違っても行かないようにと思っていました。しかし、締め切りも迫っているためか、有楽町の駅前の売り場も大変な行列でした。
この売り場は、大黒天宝くじと言って買った人は、窓口で千社札のような大黒様のシールをくれるようです。売り場の横に、祠のようなものが備え付けられていて、もの凄い数のシールが一面に貼られています。その中には、ちゃんと木彫りの大黒様が鎮座していて、買った人は、老若男女だれもが、思い思いの場所にシールを張り付け、自分の宝くじを大黒様に擦り付けるものまでいて当りますようにと願をかけています。
もう、みんながみんな真剣に拝んでいるのを列で待っている間ずっと見ていたためか、自分にもむくむくと欲望の炎が燃え上がってくるのを感じました。
実のところ、4年間続いていた仕事が、来年の2月には終了する事が決まったばかりで、この先どうしたものかと呆然としていたところでした。ここで、この宝くじが当たれば、もうなにも恐いものがないと、バカバカしい妄想に取り憑かれ始めるのでした。
もらった大黒シールは、しっかりと祠に張り付けようとするのですが、肩に力が入り過ぎているためかなかなかシールの台紙がはがれず、もたついてしまいました。
気持ちを落ち着かせようと日比谷公園に行き、お気に入りの日比谷茶廊でドイツのエルディンガー ヴァイス ビア『ピカントス』を飲むのでした。
風が冷たく、外で飲むのには厳しい季節になって来ました。(12月20日飲)

↑恒例の一足早い年賀状です。小学館刊『おじさん図鑑』に、似せて作ったのではないですが、『おじさん図鑑』というタイトルと雰囲気がなかなかよろしいので、なんとなく真似た感じで作りました。来年もよろしくお願いします。
     ☆
とりあえず、本日12月28日、仕事納めをしました。
明後日から、和歌山に帰省をして短いながらもお正月を楽しんで来ます。
もちろん、宝くじ当選の結果は、言わずもがなだと思います。
それではみなさん、よいお年をお迎えください。

涙は、また流れた。

東京都檜原村に住む、義母が、自宅の畑の坂道で、転倒して頭を打つ大きな事故にあった。打ち所が悪かった以上に、大量出血もし大手術で一命は取り留めたものの2週間経っても、いまだ意識が戻らない。
こういった転倒事故が、特に老人には多いことも後で知ったが、家族にとっては、青天の霹靂、ただ、呆然と事実を受け入れるしかなかった。
実家と、病院と、自宅と、行き来する日々が続き、かなり、疲弊する毎日だったが、気がつくと、義父もかみさんも、酒を飲まなくなっていた。
昏睡状態の義母の快復を祈ってのことだが、自分は、それでは保たないと控えめにビールなど飲んでいた。
かみさんは、長期休暇がとれて実家でこの事態に対処するべく檜原村に行って、こっちは、相変わらず仕事に追いまくられる日々となった。
何も、すべてを絶望することはないと、週末、『大はし』に飲みに行けるチャンスが来た。明日の土曜日、仕事は休みになったので病院にも行ける。
では、このチャンスに『大はし』に行くしかない。

残っていたボトルは、たっぷりで、とてもこれを飲み切っては普通では帰れないなと自制心も働きながら、赤むつの刺身が終了で残念だったが、今日の盛り合せは、いさきと中トロ、それとサンマのたたきで、飲み進めた。
ひとりのくたびれた中年の男が、店に入って来て、空いている隣の席で
「自分は、酒を飲まないけんど、肉豆腐、食わせてもらえないか」
と、言うではないか。もちろん、『大はし』のおやじさんは「ほいっさ」のかけ声とともにさっと、その客に肉豆腐を出した。
それを、食べる客。
『大はし』のおやじさん、そっと水の入ったグラスを出す。
隣に座っている自分は、ぐっときた。涙が、出て来た。
出てくるのが何に対する涙か、わからないけど
この煮込みは、本物だよと強く思った。グラスの水を出す
『大はし』のおやじさんが、“千住で2番”のこの店の姿勢そのものだと思った。(書いてはいないが、もちろん1番はお客様)
煮込みだけを食べに来た客と、なんで、今日いあわせるのかと
思いながらも、この店で飲む幸せを噛み締めた。
実は、泣きたかったのだと思う。
店では、さすがにうるると来たのをハンカチで誤摩化したが
帰りの常磐線のホームでは、端の暗がりに行って涙を流した。
     ☆
これが、肉豆腐で泣いたのかどうか
わからない。
ただ、酒を飲まない男が、肉豆腐を食べに来て
そして、おかわりするのを横で見ながら、涙をこらえていた。
そんな自分を思い出すと、今度はなんだか笑えて来た。
     ☆
義母よ、こちらに戻っておいで

できたてオムレツの湯気に、涙する

北千住『大はし』では、肉豆腐からはじまって、魚や貝類のお刺身、照焼、そして、オムレツで締める。何度か、ブログでも書いたことがあるが、東京の下町に住み始めて二十年、この店で定着した飲み方にほとんど変化はない。
飲むのは、金宮焼酎の炭酸割で、梅のエキスは、ほんの一滴を落とす程度。
定番以外に、菜の花のからし合え、ワラビ、もずく酢などの酸っぱい系などその時々の旬のものを気が向いたら食べるし、基本のお刺身や照焼の魚や貝類は、季節によって、やっぱり変化に富んでいる。
しかし、はじめの肉豆腐と締めのオムレツは、毎回、まったく変わらないので、自分でもよく飽きないものだと驚く。人にも、なんで最後にオムレツなのかと聞かれたことがあるが、明確な答えもなく、いつのまにかこれを食べるとさて切り上げるかと踏ん切りがついて、結局、毎回食べている。
『大はし』のオムレツは、玉子に焼豚のような小さな肉の角切りがぱらぱらと入っている。ソースは、キャベツの千切りに少し垂らすだけで本体のオムレツには何も付けない。肉の角切りの塩味と、玉子の甘さだけで充分満足する。オムレツに、煮込み汁をかける裏メニューを好む常連も中にはいるようだが、断然、シンプルに食べる方がいいと思っている。

↑もう何年くらいになるのだろうか、『大はし』店内の撮影が禁止なった。それまでは、いつも食べたものの写真は撮っていた。このブログを書きはじめた頃、よくオムレツの写真もアップしていた。それを引っ張り出してくるのも芸が無いので、かつて食べたオムレツの写真をパソコンでトレースしてみた。
今夜も、そろそろ締めにオムレツを注文する。
目印に、ソースさしが目の前に置かれ、残りの炭酸で最後の一杯を作っているうちに焼き上がったばかりのオムレツが目の前に出された。見事にできたてのほやほやで、まさに湯気が上がっていた。
すぐに箸をつけるのも忘れて見惚れてしまっていたら、とっさに、目から涙がほろほろと出て来た。あっ、やばいとまわりには悟られないように素早く拭いながら、箸を出して口に入れるとふわふわの旨さで、えも言われぬ切羽詰まった気持ちがますます強くなって来た。
なんぞ、我慢できないくらいのつらいことがあった訳でも、旨いオムレツを食すことぐらいしかいいことないと人生を嘆きたかったのでも、もちろんない。
自分でも、オムレツで泣けるとは思わなかったが、できたてのオムレツだけで、本当に涙が出ることもあるのだろうか。
しかし、取り立てて深く考えても、このオムレツのシンプルなうまさのように複雑になにかあるわけではないだろう。
食べ物というものは、不思議なものである。時として、ふとしたことで心を揺さぶるのである。(7月17日飲)

↑今年の前半は、平日に休みの日も多かったので、ゆっくり銭湯には入ってから早い時間に『大はし』に飲みに来ていた。夏場をピークに、仕事がたて込んで来たため、週末の金曜日、むりむりに仕事を終わらせて駆けつけても20時を過ぎてしまう。「今、いっぱいだよ」と、のれんをくぐるなりに言われても勢いで店内に入り、じっと我慢して席が空くのを待つことになる。

↑おまけの写真は、上野・不忍池の蓮が咲き始め見事な姿を見せている。半年前の冬のこの池の姿をブログに紹介したので、夏の今も載せたくなった。仕事の日でも、上野公園のスターバックスでコーヒー飲んでから、蓮の花を見て極楽浄土を味わってから、地獄の(ように暑い)街の中へ。

歴史は、電球傘にあらわれる。

デザイン事務所に通勤するときに、必ずと言っていいほど、築地のスターバックスでコーヒーを買っている。この地に通い始めて4年だから、もう顔なじみといっていいだろう。
レジで「今日、この店の16歳の誕生日になりました。お客樣のおかげです、いつもありがとうございます」と、挨拶された。とても、16年前からレジに立っていたとは思えない若い女性から言われたのだが「それは、おめでとうございます」と、こちらもエリを正して言葉を返した。
店に歴史あり、世界的コーヒーチェーンの会社とは言っても、支店の一店一店に日々の努力があるからこその継続なのだろう。
歴史と言っても少し違うが、新宿・思い出横丁の『カブト』の焼き台を照らし続けた電球の傘が、とうとう世代交代の時が来た。

↑色紙に『カブト』の電球傘の絵と文を描いた客がいて、今でもそれを店に飾っている。味わいのある絵と文で、現物と見比べながら飲む焼酎もまた旨い。実際に店に来て、うなぎもそうだが、絵と実物の電球傘を味わってほしい。
同じ『カブト』ファンの“びんさん”から、このブログに電球傘の殿堂入りついての書き込みをいただいていた。そういえば、2週間ほど『カブト』には行っていなかったと、いそいそと新宿、思い出横丁に出掛けていった。
『カブト』では、すでに2年前に世代交代があり、おやじさんの孫O君が店のカウンターの中に立つようになった。そのO君の前に座り、上新香とビールを出してもらい、焼きたてのヒレをあちあちと齧り、ビールをぐぃっと飲む。
「あーっ、これ、これ」と、口に出して言いたくなる。
さてと、そうだと思い出して上を見上げたら、おおっ、この存在感。
焼き台のおやじさんの手元を、新しい電気傘がすっきり明るく照らしているが、並んで堂々と『カブト』50年の歴史が黙って吊り下げられていた。

↑外から写真をとっても、中の雰囲気が伝わりにくいのだが、毎回『カブト』に来た時は、店に入る前の写真を必ず撮るようにしている。
「とうとう、変えたんだね」とO君に話しているとそれを聞いて、店にいた客達は、目先のうなぎの串や焼酎から顔を上げて、2つ並んだ電球傘を見上げた。
うなぎの焼ける煙に燻され続け、ふくれあがって炭化した電球の傘に、皆さん口々に感嘆の声をあげ始めた。
「ツララのように垂れ下がっていたのは、取っちゃったの」と、誰かが聞くと
「焼いている時には、どんどん垂れ下がって来ても、すぐに取れてしまうんですよ。真冬の本当に寒い時期には、固まっている時もあるけれど」
O君が、客に答えている横から、おやじさんも「新しいのだって、すぐにこうなっちまうよ」と話に入って来る。
ひとしきり、かつてオブジェのように焼き台の目の前にあった電球傘に話題が盛り上がり、その時に口火を切った自分としてもいい気分に浸っていた。こうして、世代交代があったとしても目の前に存在して、ちらり、ちらりと眺めながら酒を飲めるのは嬉しかった。
帰りの山手線で、昼酒の酔いに身を任せうつらうつらしていると、あっと声が出そうになった。電球傘の話に満足し過ぎて、現物の写真を撮っていないことに気がついたのだ。今日は焼酎2杯だったから、引き返してもう1杯飲んで写真を撮ろうかとも考えたが、山手線はすでに池袋を過ぎていて、来週、また行けばいいさと気持ちを抑えた。

↑写真を撮り忘れた先週は、限定本数終了のタイミングで、レバ串食べることができなかったが、今週は、ちょっと早めに来てレバ串もちゃんといただきました。
友達に連れられて初めて『カブト』で飲んで食べてから、足掛け30年ほどになるだろうか。頻繁に通うようになって20年ほどで、確かにこの電球傘の炭の層何ミリかのあたりからこの店で、同じ煙の空気を吸ってうなぎの串を齧り、焼酎を飲んでいたということになる。そう思うと、やたらとこの電球傘に親近感もわいて来る。
化石や木の年輪のような感覚に近いところで、店の歴史を象徴しているこの電球傘が、独特の存在感を放っている。
頻繁に来る客にも、かつて一度立ち寄って、縁あってふたたびこの店に来た客にも、今初めて来た若い客にも、汚い電球傘ではなくこの店の歴史として受け入れられるのではないかと、一週間後、カメラを向けて思った。
せっかく、二つを並べるといった粋な計らいをして頂けたのだから、この先、最低でもおやじさんが焼いている限り、ぶら下げていてほしいと心からお願いしたくなった。(6月20日飲)

↑マル塩を追加して、焼酎3杯目をたのんだら、飲み過ぎじゃないのとおやじさんからチェックが入ってしまった。マル塩を楽しみながら、これを飲んだら本日の終了、おとなしく家に帰ります。

↑帰りの西新宿、昼酒は、きくなぁー。