レスラー

movie_kid2009-06-13

アメリカ初の黒人大統領が誕生してから
世の中がチェンジ、チェンジの風潮になりつつも
変われない男の物語。
かつてのスター・プロレスラーが
20年経ってぼろぼろになった行く末のお話。
本場であるアメリカ人でさえ、自らファンだと言わないくらい
一般のスポーツとは一線を画してるアメリカン・プロレスリング。
人気がありながらも、見せ物的でやっぱり見下され肩身が狭いのかもしれない。
大量の薬物で身体を維持し、過激により過激にエスカレートして行くリングショーに
そのマットも、それ以外でもスポットライトを当てる事は少ない。
記憶にあるのは、02年のドキュメント映画『ビヨンド・ザ・マット
アメリカン・プロレスの光と影、表も裏も捉えた画期的な名ドキュメント作品だった。
日本のマットとは、違いも大きいがお互いに絶滅しない所を見ると根強いファンがいるのだ。
八百長問題や勝負のルールなどやすやすと越えてしまうくらい虚実混ぜこぜの
激烈な肉体の酷使に、俗悪な趣味の悪さと相まって目を覆いたくなるが
どこか神々しいと思えるくらいの献身とでも言えばいいのか
群衆を前に、なにもそこまで痛めつける肉体をさらけ出す事が出来るのだろうかと思える。
果たして、プロレスファンはそのマット以外を見たいのだろうかと
疑問を持つ所だが、そこにはもっと生身で等身大の人生が凝縮されているのだ。
ミッキー・ローク、盛衰の役者人生にシンクロしているようなこの『レスラー』
肉体ばかりではなく、その精神すらぼこぼこにして壊した後のような
顔つきやら姿に、なにやら強い吸引力があるではないか。
鼻持ちならない、イケメンの頃なんかより
自分の状況を冷静に受け止め、ダメなんだな俺はと理解してもあっさりとはあきらめず
前向きに生きようとする姿は、心の底から熱いものを引き出される。
映画は想像していたように、飾り気なくシンプルに真っ向からそんな男の人生を捉える。
控え室での後ろ姿やレスラー同士のやり取り、リング上で限界の肉体を
執拗に追っかけるカメラの鬱陶しさや血飛沫に、男の輪郭がくっきりと現れてくる。
深い孤独の果てに思いを寄せるストリッパーと、親として何一つしてこなかった断絶の娘
役の利かせどころ以上に二人の女優の良さが光って、映画そのものをグット持ち上げている。
「これ以上、何を求めているんだ」と、ブルース・スプリングスティンが歌い
プロレスに熱狂する観客に向けてでもあり、レスラー本人が命の果てのギリギリで
自分自身に思う事でもあり、深く心に染み入ってくる。
果たして自分は何なんだ。自分のやりたい事、居場所は何処なんだと
人生の時を重ねて思う、想いをミッキー・ロークが全身を張って表現していた。
変われない男は、実はすでに変わって自分を見つけていたのだった。
     ◎
初日に観て、一週間後もう一度観に行った。
ちょうど重なるように日本のマット上で、試合中に一人のレスラーが死亡した。
映画と現実は一緒でないながら、見当違いに離れているとも思えない。
あえてプロレスファンに必見とは言わないものの
一人のレスラーの生き様が描かれている。
2度目という事で気楽に観ていたつもりが、琴線に触れるがままに涙がながれた。
哀愁を感じてというのでは決してなく、ひりひりとするくらい切実に
のたうつ様に自問自答して、自分の人生を生きる姿の物語にぐっと来ちゃうんですよ。