夏のやり残し

(10月13日)
暑い夏がようやく終わって、朝晩、めっきり肌寒くなって秋も深まってくる。暑さにふうふう言って、外を歩くだけでも大汗たらしていたのに不思議なものだ。天気予報で、木枯らし1号が吹いたとかで、今年も残り少なくなり、なおさら、この夏にやり残したことなんかを物憂げに思い返したりする。
一つや二つ心残りに思っていること、やり残してしまったと思っている事だけが妙に心に引っ掛かっていたりするのだ。だからという訳でないが、あの不快な暑い夏も過ぎ去ってみると、なんだかいとおしく思ったりもしてくる。
締め切りに追われる仕事のおかげで、事務所にこもりっぱなしの毎日を過ごしているため1年を通して駆け足で暮らしているようなものだが、夏から秋にかけて休みもあまり取れず、特に土曜日が休みになる事がほとんどなくなった。映画を観て、新宿・思い出横丁の『カブト』でうなぎの串焼きを食べながら昼酒をするのが、休日の土曜日の過ごし方だった習慣も吹っ飛んでしまった。
午後から店を開けている新宿・思い出横丁の『カブト』は、店じまいも早いので平日に仕事を終えてから行くのは無理な話。うなぎを食べたいと夏のあいだ思い続けていながら、以前と比べ本当に行けなくなってしまった。

↑新宿・思い出横丁『カブト』すっかり陽も落ちた後に、来ることもあまりなかった。
うだるような暑さの八月の終わり頃、築地から隣の新富町の事務所に向かっている途中で、コーヒー屋に立ちよりその交差点の先の老舗のうなぎ割烹の店の前でばったり『カブト』の若い衆と出くわした。
新宿と築地は、とても近いとも言えず、さりとて同じうなぎの商売であるからまったく、とんでもないところ出会った訳でもない。
『カブト』には、数年前から若い衆がひとり店の中に立つようになった。
ツルツル頭のつぶらな瞳のガッシリとした若者で、おやじさんのもとに弟子入りしてその内に焼き台の前に立たせてもらうのかなと思っていたが、いつまでたっても焼く姿を見せる事もなくのんきな感じで店の手伝いに勤しんでいるようだった。
そんな彼とばったり大きなうなぎ屋の店先で出会ったのだから、こちらもどう理解していいのか突然の事に「あっ」と、声を出し驚きながらにらんでしまった。とっさに思ったのが、出来が悪くて修業に出されてしまったのかと勘ぐって、その後の言葉が出なくなった。
彼も驚きつつ「仕入れですよ」と、いいながら手にしたビニール袋の大きな袋を差し上げた。
「そうか、そうなんだ」一瞬のうちに理解した。
『カブト』の売りは、蒲焼きには切り落としてしまう部位、頭の襟首や尾っぽに背びれ胸びれ、内蔵を串焼きにして出すのだから、うな重の専門店からは捨てられるべき部分を利用するのだ。何十年と思い出横丁にかよって、旨い旨いとうなぎの串焼きを食べながら、同業者から集められて来るのだろうと何となく理解していたが、とうとう、偶然にしてその現場を目撃できたのだ。
今の事務所で仕事をはじめて1年、通勤途中や弁当を食べた後、コーヒーを買いにこの老舗のうなぎ割烹の店の前を通るたびに、香しいうなぎの焼ける匂いを嗅ぎ「あぁ、カブトに行きたいな」と、思い続けていた。この老舗のうなぎの一部が、いつのまにか自分の口に入っていたとも、あながち言えなくもなかったのだ。
割烹の店の前で、匂いに惹かれながら同時に昼のメニューのバカ高い値段を目にして間違ってもこんな店で食べるものかと思っていただけにすこしいい気分になった。
そんな事があって、ますます『カブト』に行きたくなったが9月中はまったく行けなかった。10月になってもそんな状態が続き、我慢も限界だった土曜日の夕方、無理矢理に仕事を終わらせ新宿に向かったのだ。
陽も落ちて、土曜日の夕暮れた後の時間に『カブト』に来た事もあまりなかったが、閉店までは1時間以上もあり余裕で飲める算段だった。はやる気持ちを抑え、入店前に恒例の店の前、路地からの写真をとり、空いている席に座ると
「あぁ、申し訳ない。もう、全部売り切ってしまって、焼くものがないんだ」
予想もしなかった言葉を、かけられてしまった。
何か、言いたくなったが、思い浮かぶ言葉もなく「そうですか」と席を立ちふらふらと通りに出た。

↑写真は、間違いではありません。事情があって、煮込みから食べ始めることに。

↑写真でわかるが、食べはじめたのは『ささもと』の焼きトン。土曜は、おやじさんではなく焼き台に立つのは、若い衆だ。おまかせしたらカシラは、タレで来た。あっさりのタレの味が、意外に旨い。

↑茗荷肉巻き。

↑茗荷を食べる前に、ビールから金宮焼酎に。
すでにビールを飲んで、ひれ焼きをぱくついているイメージが頭の中で残像のようにあり、ぽっかりと心に穴が空き、行くあても思い浮かばないまま新宿の怒濤のようなひとの流れの端に立ち尽くしてしまった。
なんだかバカらしくなってもう帰ろうかなと思い、家に帰ってメシがあるかどうか電話するもかみさんはどこに行ったのかでない。腹をくくって思い出横丁で飲もうと思ったら、やっぱり、行くのは『ささもと』だった。
食べながら、飲みながら、どうやらこの時間は、まだまだいろんなネタがあるのがわかった。来ていたのが、いつも金曜日の夜遅く店じまい前だったからネタも少なくなっていたのだろう。

↑タン味噌。

↑他の客が、頼んでいるのであるのがわかった、チレ刺。

↑レバねぎ醤油。

コブクロもねぎ醤油で頼んでいたが、忘れられていたのでもう一度言ったら、タレで来た。タレでもわるくなかったが『カブト』にふられているせいか、寛容になっている自分を感じた。

↑ハツは、ゆず酢を振りかけてもらいさっぱりと。

↑キャベツで締めは、いつものパターン。
この7月から牛レバ刺しが禁制になったのだが、そんな規制の範中の外でだす生のネタもこの時間ならいくつかあるのだった。
帰り際、もう一度『カブト』の前に行ってみたが、もう、戸締まりもしっかりとされていた。
緩い坂になっている思い出横丁を、下ってしまうと新宿の大ガードがあり、それをぬけると靖国通り沿い歌舞伎町のネオンが見えて来る。
夏のやり残しの気分を抱えながら、ゴールデン街の『ダンさん』で、もう一杯飲んで帰ろうと歩きはじめた。

↑恋いこがれて来た『カブト』だったが、ふられてしまった。『ささもと』をでてから来てみるとすでにしっかりと戸締まりされていた。

↑漫画の原作で、ドラマになった『深夜食堂』のタイトルバックに流れる新宿大ガードから歌舞伎町にむかうシーンのところ。やり残した気持ちを抱えながらゴールデン街に足を向けるのは、深夜に食堂に集う客達と同じ心境かもしれない。